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茂木健一郎さんの講義から

「脳と心を考える ~脳と情報~」
というタイトルの講演があったので参加してきた。
かいつまみつつ、自分の考えている地域教育の事を述べていきたい。


まず講義では「脳のフロー状態」を紹介された。

○横軸に技術
○縦軸に課題


を設定して、これが両方とも高い次元になっている状態を言う。
この時、からだは「集中しているけれどもリラックスしている」のだと言う。
これがトップアスリート等の勝負時の特徴となっており、最もパフォーマンスを発揮するのだ。
しかしこれを達成する為には当然ながら訓練が必要であり、発展途上段階にも常にフロー状態は存在していて、その段階を一つずつ上げていっている。

オリンピックでダントツの活躍をしたボルト選手は紛れも無くフロー状態だったと言えるが、では他の選手は違ったのか?と考えると、実は他の選手もフロー状態ではある。そうでなければ世界決勝戦などには残れはしない。では、ボルトとの圧倒的な差は一体何なのか

ここに「才能」が厳然と存在すると言う。

一卵性双生児であろうと、脳のシワの形は異なる。
脳の回路は遺伝子で作成されると言えども、脳の一人一人の構造は異なり、これによってどうしても才能の違いが現れてくるのだそうだ。
それぞれ「あまり難しく考えなくてもとりあえず出来てしまうようなこと」を必ず持っており、そういったことがひとまず才能と言える、とも。
こう考えると「才能は残酷だな」と思いがちだが、果たしてそうではない。

教育として偏差値が存在しているが、そのように「才能を一元的、少ない種類に絞る」からそのように感じてしまうのだと言う。それぞれの才能はもっともっと詳細に、無数に種類があり、それを一元的に判定する事などできない。才能の次元がいくつあるかなんて分からないのだ。

「才能と勉強の偏差値に関係などない!」

こう茂木健一郎さんは叫ぶ。

ここから「才能・個性をどう集めて運用していくのか」という研究の紹介に入っていく。
Google、Wikipedia、LINUXオープンソースプロジェクト等の例をとって話が進められた。


====

実際には様々な動画や、この後ももっと深い話がされた。
とてもエキサイティングな講義だったと思う。

この話を聞いた時、学校教育の狭苦しさが持つ危険性を考えざるを得なかった。僕のイメージする学校教育は、割とがんじがらめで、求められた生徒のカタチに近づけるか否かが問われるというものである。
というのも与えられる科目の点数がよく、大人しく、典型的タイプであれば評価されるというものだからだ。たぶん、これは多くの学校がそうであろうし、同じように感じる人は多いと思う。

学校校則によって服装は統一させられ、例えば「中学生らしい格好」という風に設定される。中にはもっと厳密な取り決めのある学校もあるかもしれない。そして、そこから逸脱するような服装・行為は「問答無用」で矯正させられるといった流れがある。

もし服飾の能力を学びたければ「家庭科」の授業の中にある「裁縫」を行う短期間しか学べない事になる。当然「メインの科目」さえ良ければ将来はより約束されるのだから、そうなっていくのだろう。
そしてそれは大学が「メインの科目」のペーパーテストで全てを判定しようとするから、なのかもしれない。大学に入り無事卒業して就職する。それが「将来への約束」となっているのだ。
就職は、新卒一括でしか、中々入れないのだからそうなるのだ。結果的に、ペーパーテストをどうクリアしていくかという教育に、小学校の頃から慣らされていくのだろう。

けれど「いくつあるか分からない才能の次元」を全てカバーする事は難しい。学校教育は本来、何も点数だけではなくて敢えてルールを遵守する精神の教育も確かにあるのだとは思う。しかし、恐らく多くの「才能」を削り取る機関となってしまっているのではないかと思ってしまう。

僕は子供会の手伝いをボランティアでたまにしているけれども、彼等へ接する時に色々と考える事がある。開催連絡の為に、彼等の家々を個別に訪問して話をしたり、時に子供本人宛に手紙を残したりしている。
彼等の反応は様々で、親御さんから「お兄さんの電話番号を知った事が嬉しかったようです」と言ってもらえたり、次の子供会はいつだ!と元気良く聞いてくる子もいたり、中には参加したくないと暗くなる子もいる。

しかし、僕のような青年世代は例え「行きたくない!」という子であろうと「それでも良いんだよ」と言ってあげることができる。学校教師でも、親でもない、そんな不思議な関係を築けるようにも思う。
いつしか「教育」は学校のものであり、そのレールに乗る事が正常と受け止められるような社会になっていったのだと思う。僕は子供会の手伝いをする中で「地域が子供達に体当りしていく」事の重要性を抜かすわけにはいかないと感じるようになってきている。

学校で許されない事も、地域やお兄さんの前でなら許される。そんな事があって良いと思う。そういう場が「才能」の発見を、より促すのではないか。子供本人だけではない、いろんな立場の人間が、子供の「いくつあるかわからない次元」を発見していけるのではないか。ひょっとしたら、それって大きな事だったりするのではないかと思う。

僕には高校時代に仲良くしてくれていた日本IBM勤務のお兄さんがいた。
彼との話は、学校でも、家でもしない事で、様々にアドバイスをくれた。
全ての支えという訳ではないけれども、後々になってその時の思い出で救われたなと感じる場面もある。

20代のような青年世代が、子供達と縁を作っていく事。
それも一つの大きな教育ではないかと考える。

たとえ多くの子に影響を与えられなかったとしても、いざ一人の子が将来大変な目にあった時、一人の青年がかけた言葉が切欠となって立ち上がれるような、そんな可能性があるのなら、僕は少しでも多くの子を励まして行きたいと思う。
学校がどうだったとか、正直に話を聞いて上げられるだけでも良いと思う。
その可能性を拡げる為にも、地域が子供達と繋がって行くことの効果はとても大きいと考えている。

20代の青年世代が、もっと地域の子供達と交流を持っていくこと。これが本当に根付くのならば、子供達はもっと羽ばたけるようになるのではないか。そんな風に希望を持ちたいと願うことがある。
今は教育にも閉塞感が感じられているのではないかと思う。僕は、青年世代がどう付き合っていくかというこの課題が、ひとつの解決へのヒントになるのではないかと思う。


青年が子供達に飛び込む時、どうしたら良いかわからなくなると思う。
僕は常にそうだし、どう声を掛けるべきか分からない事の方が多い。
更に、毎度毎度子供達から学ばされる事ばかりだったりもする。
それで、良いと思う。仕事でもなく、義務でもなくつきあう子供と青年の関係。
変えていけるのは、若い熱量と力だと、僕は信じたい。
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