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祖父の話

帰宅したら親父が一人で酒を飲んでいたので話をした。
そのまま祖父の生い立ちについて話題が変化してゆく。
これまで聞かなかった訳ではないが、祖父のことをほとんど知らなかったのだな、と思える話がたくさんあった。親父もイチイチ、何を話して、何を話してないのか把握してないようだ。確かに、そんなものだよなと思う。


祖父は尋常小学校を卒業した後に、オリンパス(現在カメラや内視鏡を開発している会社)に入社し、職人として働き始めた。その時は顕微鏡の組み立てや、レンズの製造・磨きなどをやっていたようである。
僕の祖母とは同社にて知り合い、付き合いを開始したようだ。
実は元々新聞記者になりたいという夢があったようだが、友人・親戚等に「そんなヤクザな仕事はやめておけ」と注意を受け、諦めてしまったのだそうだ。
徴兵制により、一旦会社を離れて軍に入り、訓練を開始する。
そのまま第二次世界大戦に突入し、祖父はいくつかの戦場を転々とする。
最終的には「レイテ島の戦い」に参加した84006名の中で、生き残った僅か4745名の一人として終戦の1年後に日本へ帰国する事となる。
オリンパスに復帰。祖母と結婚。その後技術を積み、独立して顕微鏡の組立工場を経営した。
そのおよそ10年後に僕の父(次男)ができる。この時には工場の経営がかなり苦しくなっていたようだ。
(長男、長女、次男、三男 の4人が生まれた)
父が小学校3年生くらいの頃、不渡りを食らって工場は倒産
その後祖父家族は世田谷に移り、1年間孫受けのような形でレンズ磨きの仕事をしていた。
北区、桐ヶ丘にある都営住宅に当たり引越し。ここが後に僕が良く通った「祖父の家」となる。
職人を辞め、幾つかの保険会社を転々とし外交員として働く。生活保護を数年受ける事となった。
(この間お金がない為、父の高校卒業アルバムでは、父だけが私服で写っている)
祖父が50歳過ぎた頃に、保険会社の正社員になる。ここで生活保護は解除される。
60になる頃には仕事をやめて、年金生活に入っていたようだ。
僕はこの頃からの祖父しか知らない。

レイテ島での経験を通して、戦争の悲惨さを伝えようと一念発起し筆を取る。
文芸同人誌に何度か投稿していた。NHKの書き方通信教室を受けていたようだ。
この時に書き溜めていた原稿が、没後親族によって個人出版の形で出される。
たった一人の人にでも」というタイトルで、親族にのみ配布された。

現在、原稿は僕の実家にあり、これをブログに転載している。
2006年頃にこの世を去る。

総合するに「職人」が最も長く勤めた肩書きではないかと思う。
レイテ島をはじめとする兵役でもほとんどは「整備兵」だったそうだ。
独立して工場を経営したものの、失敗してしまった事に悔いがあるらしく
「あの時、俺が勘違いして独立してなけりゃ、苦労させなかったんだがナァ」
と父によくこぼしていたと言う。
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