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ヘンリー・ダーガー展から

昨日行った「ヘンリー・ダーガー展」は僕に取って初とも言える美術館の体験だった。美術への興味が無かったし、第一、絵を見たからといってどうなるのか、どうしたらいいのかが全く分からなかった。食わず嫌いだったのである。
誘われた時には「よくある美術館」に行くものと考えていた。しかし、勧められたのは「ヘンリー・ダーガーという類の無い人物」という事であった。彼は一般的な芸術家とはかけ離れた存在として扱われていたのである。


ヘンリー・ダーガーは子供の頃から60年程「誰かに見せるつもりのない作品」に取り組み続けた。また、ヘンリーにはほぼ友人と呼べる人物がいなかったそうだが、時折近所の人達には「本当に誰かが尋ねてきているかのような会話」が聞こえてきていたと言う。その会話は、彼が考える、彼の為の、「彼が演じる客」という事だったのだ。

ここで、ただの狂ったオジサンと済ませてしまうことは容易い。ヘンリー・ダーガー展で掲示されている作品群を見れば、それがただのおかしなオジサンでしかなかったとはそう簡単に言えなくなってしまう。そんな説得力、迫力、不可思議さ、そして多少の嫌悪感を見る人達に与えるのだ。

彼は「誰かに見せるつもりのない作品」を長期間に渡って作り続けていた。(それもたったひとつの作品を作り続けた)死後は部屋をとにかく片付けて全て破棄して欲しいとだけ大家に伝えていたそうだ。彼の作品が世に出る事になったのは、この大家がまた芸術家であり、遺されたヘンリーの作品に感銘を受けたからである。

ちょっとした妄想なら誰でもしたことがある。誰かが得するものでもない、自分にとっても大きな意味がある訳でもない、そんな儚い妄想。しかし、何か作品に取り掛かろうとするとき、その作品が純粋に「自分の為だけ」であるとはまず考えないはずだ。
出来がよければ誰かに見せてみたいし、その作品がそうでなくても将来何らかの形で「表」に出んが為の訓練という意味を持つこともある。製作活動と、交友関係を平行させて様々なものを取り込んでいくとか、とにかく自分だけの為の作品というのは、ちょっと想像できないものである。
一人部屋の中で、ちょっとした寸劇を妄想することがある。子供ならばアクションヒーローの妄想から、実際に身体を動かして敵を倒すといった想像を満足させんとする。(いや、大人だってあるんじゃないだろうか)だとしても、それは一瞬の事で少し経てば「馬鹿な事をしていたな」と、誰かに見られていた訳でもないのに反省する。ちょっとした遊びに過ぎないもので、それは自分の為の作品とは言えない。

ヘンリー・ダーガーが部屋の中で行っていた「会話」はとにかくリアルなものだったそうだ。その演出は「自分の為」と言えるのかもしれない。自分の部屋で、自分の為の物語を、自分の為に全力で演じる。他者を意識しない事を、本当に純粋な形で保てた場合、その「表現」はまさに「自分の為」の究極ではないだろうか
今、少し試してみて欲しい。部屋の中で一人ならば本気で「寸劇」を行えるだろうかと。家人や近所に聞こえてしまうような「日常的な声量と自然さ」で、そのような「会話」が出来るであろうかと。
または「アクター」なら出来るかもしれない。しかし、演劇としての訓練という意識も持たず、純粋に自分の妄想を満足させんが為だけの「会話」を行えるであろうかと。

恐らく多くの人は「無理」だと考えるのではないかと思う。行動としては可能でも、その精神はどこまでいっても「自分の為だけ」のものとはなりえないと感じるのではないか。なぜ、そのように感じてしまうのだろうか。
私達は常日頃「他者」との関わりの中で生きている。他者からの影響、他者への影響のあるものでなければ「価値がない」と思っている事の方が多いはずだ。
一人で「会話」を行うにしても、それが演劇の練習になるとか、実は誰かに聞かせる意図があったりとか、必ず「他者」に何らかの意識を持たせることで「意味のあるような気がする」ものへと変わるはずなのだ。
例えば「自己訓練の為の会話」だとしても、その訓練の結果は近い未来で外界に出たときに活用する為の訓練であり、やはり他者を意識した行為が前提である事は、なかなか外せるものではないと思う。
しかし、ヘンリー・ダーガーは純粋に自身の為だけに「会話」を行っていた。
そういった「自分の為だけ」に行う芸術の制作活動が、彼の人生にとってどうだったのかは、結局のところ彼自身にしか分からない。もしかしたら彼自身にも分からず、何がよかったのかさえ誰にも答えられないとも言えるだろう。

現代にも、活躍する「表現者達」はたくさん存在する。
彼等は「表現」を追い求めて日々様々な事を吸収しようとする。その「表現」が自分のものだとして、そして自分がその「表現」を行う為に。
しかしその「表現」は誰かに見られていることを前提としている。「表現」を受け取る側がいるという事を常に意識している。孤高の表現者と言われる者でさえ、その表現が「純粋に自分の表現と言えるのか」と、ヘンリー・ダーガーの展示物とその背景を見ていくうちに自問自答するのではないか
芸術にほとんど縁のなかった僕は、そんな事を考えながら展示を見ていた。

「表現者達」の心理は僕にとってあまりよく知らない世界だ。なんとなく想像できるような気もするし、それでも「表現者達」が変わり者というイメージを僕が持っていたりしていて、そう簡単に理解できるものでもないだろうという先入観を持っていたりもする。
その作品は本当に「自分が作ったのか」。純粋な自分から発露したものなのか。恐らく多くの「表現者達」はすぐに、それらが「自分以外の色々なものが自分に固まってできたもの」から出てきた「表現」だと気付くのかもしれない。
芸術性を深める為に、あらゆることの勉強をし、あらゆる他の芸術をとりこみ、偉大な自然と触れ合い、自分のものとしていくその中で、それでは一体「自分の表現とは何か」と、一時右往左往するのではないかと思う。

ヘンリー・ダーガーは本当に「アウトサイダー・アーティスト」なのか。
これまでの「表現者達」は本当に「芸術の教育を駆使して表現してきた」と言えるのだろうか。どんな「表現者達」であれ、教育を受けていたとしても、結局のところ人生における経験のあらゆるものを総合していくのには変わりがないのではないか。それほどまでに「芸術の教育」とやらは「普遍的でかつ広い何か」を持っているというのだろうか

ヘンリー・ダーガーは本当に孤独だったと言えるのかもしれない。しかしその「表現」が本当に「ヘンリー・ダーガーという自己のみ」から出たものであったと言えるのか。僕は必ずしもそうとは言えないと感じる。
彼がほとんど他人の記憶に残らないような人生だったとしても、彼は教会の掃除人として長年勤めてきたという事実があるはずだ。それも唯一の仕事で、かなりの期間を誇っている。彼にとってこの仕事の繰り返しがどういったものだったかを知ることは出来ないにしても、教会という様々な縁の集まる場所で、かれは様々な人間達を(興味の有無に関わらず)見てきていたのではないかと思う。ほとんど会話をする事がなかったといっても、教会の掃除中に聞こえた色んな話は(興味の有無に関わらず)彼の記憶に残ったものもあったに違いない。
結局、ヘンリー・ダーガーも「純粋な自己」ではなく、彼の狭い(と他人が考える)人生から「自己」を積み重ねて、形作っていったのだと思う。

ともあれ、ヘンリー・ダーガーの生き方と、製作への取り組み方は、今「表現者」として生きている人達にとってはひとつの「課題」を投げかけているように思う。「果たして自分の表現は誰のもので、誰の為のものなのか」と。
彼の境遇を知るほどに、彼の製作精神が嘘でない事を感じてしまう。嘘でない事が分かればその次には必ず「自分が自分の為だけに表現するとしたら」と自問自答せずにはいられないはずだ。
その時、どうしても愕然とする瞬間を「表現者達」は感ずるのではなかろうか。部屋の中で一人、決して誰かに披露するつもりでない作品を、自分の気持ち良いように、自分の為だけに、自分の「表現」に打ち込む、そんな自分の姿を想像するのだ。
その表現が、いつもおこなっている「表現」としてリアルに想像出来た時、彼等はどうしても「他者への表現」「他者からの評価」を求めてしまっている事に、自らの想像の中で気付かされてしまうのではないかと思う。
アクターが「練習ではなく」純粋に自分の為の演技を、ただ自分一人の為だけに行おうとすれば、むなしさを感じる。意味のなさを感じる。では、いつもおこなってきた他者への表現は、一体何なのかと。

展示会ではいわゆる「アーティストっぽい」人達が目立ったように思う。見たまんま奇抜な外見の人もいれば、そういった「芸術肌のような雰囲気」を持つ人もいた。彼等は真剣に「文字」を眺めていたように思う。作品よりも、ヘンリー・ダーガーという人物の境遇と、作品に対する取り組み方を見ていたように思う
だから僕は展示会にいながら「多分、彼等は自分達(の表現)と向き合っている所なんだろうな」と思ったのだ。それまで「自分の為だけの表現」など、想定していなかったのかもしれないなと。
ヘンリー・ダーガーのような生き様を知らずに、自然と「自分の為だけの表現」を受け入れられた人物などいるのであろうか。自己を問い詰め続ける作業を得た人は果たしているのであろうか。

もしかしたら結構たくさんいるのかもしれない。僕の知らない「表現者達」は、既にそういったことを乗り越えている人達なのかもしれない。僕に取って今回の「ヘンリー・ダーガー展」は今回のエントリーの様なことを考えさせてくれた。これは僕にとって新しい次元であったし、挑戦すべきひとつの課題だなと感じたのである。
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テーマ : 生きることは学ぶこと
ジャンル : ライフ

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生きる事を考えたい年頃です

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