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にじりよる現実

アメリカによるビンラディン殺害のニュースを見てからしばらく考えていた。
大統領の「彼を殺した」という演説、大きく盛り上がるアメリカ国民がテレビに映し出されていた。テレビではとりわけその「盛り上がりだけ」を取り上げたような印象を受けたが、アメリカの人達が抱く「様々な思い」はどういったものがあるのだろう。



僕の中では「どんな人間であれ、人間に変わりはない」というような思いがある。究極の聖人と言われる人でも、極悪な心は必ず持ってはいる。超極悪人と言われる人でも、とても素晴らしい心を必ず持ってはいる。そういうような思いである。そう信じたい、と言ってもいい。それらを自身の中から取り出していけるか、自覚できるかが重要ではないかと思う。
これは常に自分にも当てはめていて「自信を持つと同時に謙虚でもいられる」事と「自信を持ちすぎず同時に謙虚になりすぎない」事を常に意識していられる。他人に対して最後まで諦めないといった態度でもある。
人間の生命力はそんなにナメられるものではないはずだ。だからこそ考えられない程凄惨なテロを起こす力を持っているし、同時にそんなどうしようもないと世界中の人間が思うような奴でも「変わる」力を持っているとも思う。
だから僕は罪を償う為としての「死刑」は反対だし、問題の解決法として「殺害」するのも反対したい。

上記は理想であって、自分に置き換えてみるととてもじゃないが説得力を持たせられない。
自分がアメリカ国民として当事者であればどうだったかと考えていると、やっぱりニュースを聞いて大盛り上がりしていたのかもしれないなと思う。もしかしたら、色んな意見の中でぐるぐると悩んでしまって、どうしたらいいのか困惑しているかもしれない。そんな人達に「殺して何になる」と冷や水をかけるような事を言っているのは理解しているつもりではある。

アメリカ国内でも様々な意見が飛び交っていると思う。日本のニュースでは一側面しか伝わらないような感じではあったけれど、宗教云々の主義主張を抜きにしても様々な違和感を持っている人達はたくさんいるはずだ。
あのテロで人生をめちゃくちゃにされてしまった人達の怒りは、まだ深く残っているのだと思う。僕はその方々に対して無力だと痛感するし、何が正しい等と偉そうな事を主張する事もできない。

ただ、考えなければならないと思った。語り合わねばならないと思った。
テロも震災も、直接の大打撃を受けた訳ではない一人の若造が、出来る事もなく、無力感を感じたままで終わらせてしまってはいけないように思う。同じような境遇の人達と、真剣に考えて語り合う場面はとても大事なのではなかろうか。
(僕が若いかは別として)若者が対岸の火事のようなものとして「仕方ない」で済ませてしまってよいものか。「考えたから何になる」と言われても、僕は考えていたい。この事を真剣に語ってくれる人がありがたくてしょうがない。
遠回りなようだけれど、そういった一人からはじまる対話は、必ず大きな力の一歩目であると信じている。未だ武力抗争はなくならないけれども、昔から平和を望む人達の粘り強い対話があってこそ今の時代を迎えられているのだと思う。

====

「脳と仮想」を読んだ。あらゆることは仮想として認識しているに過ぎない。という視点が書かれていた。脳が入力器官(目、口など)からの情報を基に「認識」として状況を作り出しているだけであり、それに従って動いているに過ぎないからだと言う。
そうなると、人間は宇宙規模からすればほとんど真っ暗闇の中を手探りで進んでいるようなものだなと思う。結局、自分の認識できる範囲というものはとても狭く、危ういものなのだ。
しかし脳内で想定する出来事(想像)は、事実を超えた範囲まで展開できるという指摘もあった。仮想の側面の一つとしては、その「創造性」にあると言って良いようだ。

5月1日、Twitterで知ったイベントがある。秋葉原(末広町)のカフェ風イベントホールにて、風評被害にあったとされる地域の野菜を使ったカレーの販売である。
このイベントを知った時は特に乗り気ではなかった。「風評被害地域の野菜」「知り合いが参加している」というキーワードが無ければ恐らく参加しなかっただろうと思う。実際、風評被害と言っても本当に汚染されていればそれは風評ではなく事実だし、風評被害によって減少した売上を厳密に求める事はできないし、一体どの地域がどのように被害を受けているのかも知らないから、もう想像するしかない。つまり「仮想」の世界を「認識できる外」まで展開していった事になる。

このカレーが本当においしかった。一口目で色んなことを考えた。「ここは結局カレー屋なのか?」とか「次来るときは誰を連れてこようか」とか「そもそもイベントだから今日しかやってないんじゃないか?」とかそんなことばかり。一口目から「次また食べに来たい」と考えていた。
ドライカレーと普通のカレーの中間のような、スパイス中心ではなく、野菜や果物が細かく刻まれて、よく煮込まれたカレーだった。とても甘く、でも上品で、中々出会えないレベルのカレーだったと思う。

結局イベントだから、やっぱりこの日だけのものだったのだけれど、ひとつ「仮想」が破られた瞬間であった。仮想が脳内の「想像」であるとき、それは事実を超えて無限大に展開していくが、それが事実と照合された時大きな収束を迎えてしまう。カレーの見た目も、味も、脳に伝達した情報を認識しているに過ぎないとは言え、その仮想は限りなく現実に近い。当初の「乗り気の無さ」から様々なキーワードや仮想を経て、ついにたどり着いたカレーなのだ。
絶えず様々なアンテナを張り巡らせる事は「想像」の一種だろうと思う。そうでなければ出会えなかったカレーは「仮想」を裏切って想像以上のおいしいカレーであった。ただカレーを食べただけに過ぎないけれど。もしこのカレーが町内会の縁日に出される炊き出しのような一般的なカレーだったとしても、知り合いが参加している事や、風評被害地域の野菜を使っているというキーワードがあるおかげで、その仮想は僕にとってやはり価値のあったものであろう。

結局、事実を認識する事が重要ではなく、求め抜きあらゆる角度に進んでいこうとする事が「生きる」事につながるのではないだろうかと考えた。「生きる」という方向に進むには、物質的、精神的、全人格的に全人生を展開していく意識が必要なのだろう。

「夜間飛行」の主人公の一人である「社長」はこう言った。

人生に解決策などない。前に進む力があるだけだ。
つまり、その力を作り出すしかない。そうすれば後から解決策がついてくる。



生きる力を、生命力を、自身から取り出していく事。その生命力を燃料にして「前に進む」事が一つの勝利の姿であると言えるのかもしれない。
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